「信仰の検証」(2)

† 異邦人の信仰。             
 「百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」マタイ8・8)百人隊長は続けて言う「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、・・・・また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします」9節)主イエスは驚かれる。「・・・・イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」10節)神そのお方が権威である。また、その語られた言葉も同じ権威である。と言うことを、百人隊長は微塵(ミジン)も疑っていなかった。主イエスは百人隊長の信仰に感動し、最上級の讃辞をされた。百人隊長の信仰は、苦しむ下僕を救い癒した。主は私達の信仰の内容を見られる。百人隊長の信仰を通して、主なる神と御言葉の権威について、私達の信仰を検証されるのである。クリスチャンが自らを検証し、権威の信仰に導かれる一人が、今日生まれるならば、主イエスを感動させる、偉大な出来事なのだ。私達、誰もが信仰の神髄を会得できるはずである。

†  神の信仰をもて。
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。・・・・」マルコ11・22)原語のギリシャ語では「神の信仰をもて」欽定訳(Have faith in God)」である。「新契約聖書」永井訳は、忠実に原語に従っている。私達の信仰に「雲泥の差」を生んでしまう重要な飜訳だと思っている。主イエスは、実を結ばない、いちじくの木を呪われた。なんと翌朝、そのいちじくの木は枯れていた。ペテロは驚きを隠せなかった。主イエスは「神の信仰をもつ」ことを答えとされ「・・・・祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」24節)また「だれでも、この山に向かって『動いて、海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」23節)とも言われている。驚くべき神の御心は、私達の魂が打ち砕かれ、へりくだり、イエス様に似た者となれば、「神の信仰を持つ」にふさわしくなると言う事である。

「信仰の検証」(2)