「信仰の検証」(4)

† キリストの信仰を信じる

 「キリストの信仰を信じる」これは使徒パウロの信仰である。普通は「キリストを信じる」と言うし、ほとんどの聖書の表記が「キリストを信じる」になっている。即ち、キリスト「を」目的的属格として信じるという信じ方なのである。キリストは信仰の目的であり対象と成るわけである。新契約聖書は、主格的属格として訳出されており「イエス・キリストの信仰」となっている。ガラテヤ3章26節「そは汝等はキリストイエスに在る信仰にて神の子たればなり」と言うように大きな違いが現れる。偉大な神学者カール・バルトは、主格的属格の「キリストの信仰にありて(よって)」を信じた。主イエス・キリストとの質的な連続性は「キリストの信仰」を信じること。「キリストの信仰に(よる・在りて・よって・中に)」という内容によるものだと信じる。そうでない神学者や牧師が大勢おられるが、神に対する人間にとって最も重要な信仰の理解(受け取り方)が決まる。また聖霊なる神との親密な関係と、お働きとに大きな理解の差をもたらすのである。神の啓示があり、霊が開かれないと、違いの大きさに気がつけない。

   信仰による宣教。

 教会の歴史を顧みるとき、初代教会は教職と信徒という明確な区別が無い 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」1ペテロ2・9)この偉大な称号は信徒に語られている。そして、その目的は、神の御業を宣べ伝えるためであり、労苦のしがいのある、神が共に働かれる、生涯を掛けての目的であった。歴史の変遷の中で、聖と俗とを区別するカソリックの制度は、信徒と聖職者を極度に隔てる事となった。しかし、プロテスタント教会も同じように教職と信徒との区別を設ける仕組みが定着したのである。世に出て活動し、証詞し、伝道するのは信徒である。信徒こそは祭司である。信徒活動が万人祭司の理念を実現する「王である祭司」である。私達は尊い兄弟姉妹の霊的祝福と、信仰の覚醒によって、本来の生きた教会の交わりと喜びを彷彿させたいと思う。

「信仰の検証」(4)