「信仰の検証」(7)

† クールな信仰。
 日中は酷暑の35度越えで、熱中症アラートが毎日のことである。そういう中で「クール」とは、涼しくて爽やかな様。冷たいまま。ということだ。高温の中で誰もが最も求めている。では信仰にも「クール」があるのか?クールには、冷静な。冷ややかな様。という態度を現す内容を含んでいる。冷静な信仰があり、ある状況を、冷ややかに観察する信仰もあるのだ。ある時「救いには感覚も感情もない」という新しいフレーズを聞いた。まさにクールな響きだった。福音に透徹(トウテツ)した牧師の言葉であり、その教会は多くの会衆を持ち、数多くの献身者を生みだしていたのである。解ったことは、まず牧師が福音をクールに、理路整然と理解しておられる事。ゆえに、福音の真理を淡々と確信を持って、十字架の恵みに繋げて行かれるのである。聞く者は、真理(福音)を筋書きのように何回も聞くのだが、それが信仰の骨格として定着する。福音の理路整然を、冷静(クール)に伝えられる求道者は、福音(神の理路整然)を信じる。聖霊が、知識に確信を与え、感情的(感覚的)な喜びと感謝に導かれるのである。この教会は、聖霊の賜物が豊かに現された。牧師がクールに、最重要の十字架の福音に固執されたことが、類を見ない祝福を得られたのだと理解している。

† 信仰は質を換えられる。
 私達の信仰は、聖霊の働きを通して、どんどんと神に向かって換えられてゆくものである。60年の信仰の中身は、端的に二つに分かれる。前段の信仰は、現世に自己確立し、生きて行くための信仰であった。自分のための信仰であり、現代に神を信じて生きることの意味を追い求めていたとも言える。日本のクリスチャンはそのように信仰生活を送っていると思った。それは間違いではない。多くの学びと、読書を続け、祈り続けた。しかし、第一に置かれていたのは信じる「私」がいることだった。後段の信仰とは、信じる私が第一でなく「主なる神」であること。明確な質的変換が起こった。神の憐れみと聖霊のお働きで、使徒的信仰の本質に導かれたことである。自分のための救いとして誰もが信仰(福音)を持つ。そういう出発をするが、聖霊は私達を真の神の子供として、神のために生きるように換えられるのだ。

「信仰の検証」(7)