「光りの子供らしく」(1)
† 自覚を持って歩む。
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」エペソ5・8)2017訳では「光りの子供として」となっている。「・・・・らしく」の意味は、いかにも、そのもの、である事を表す。「・・・・として」は、~~の資格で、~~の立場で、ということを表す。例えば「男として」か「男らしく」か、好みが分かれるところだが「男らしく」あれ。と言われる方が、聞き続けてきた言葉のように思う。わが教会のベテル幼児園が掲げるのが「光りの子供らしく歩みなさい」である。しかし、これは信仰を告白した人に、命じられている歩み方である。悲惨な暗闇(罪)から救いわれ、光りの中に入れられた。この劇的な転換を体験しているのが「光りの子供」なのである。光りの子供の輝きは、暗闇の支配の恐ろしさが、わかっている人ほど大きい。光りの子供らしく生きる人は、同じ御言葉を共有する「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」ピリピ3・18)何に涙を流すのか、それが「光りの子供」らしい歩みを、如実に現している。
† 神の子供とされる特権。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」ヨハネ1・12)特権の味わいを知らない人生を、生きていたのが私であった。自分の求める前途を、全て断たれ、世に放り出された。しかし、主なる神は、見捨てられた小さな者を憐れんで、神の子供とされた。それだけではない「特権をお与えになった」のである。神の子供として私は所有され、主キリストの全てに預かる者にされた。1%にも満たない者が、100%となる完全な特権を与えられたのである。この真理に、今でも喜び踊るのである。取るに足らない者が、神の子供とされる特権を、受け留めれたのである。この天と地、光りと闇の距たり程に、大きな違いを経験した。誰にも、無から有へと導き出される人生が確実にある。絶望の中に絶対的な希望がある。信仰には体験的な個人差があるが、聖霊は、光りの子供を、神の栄光の極致まで、導かれるはずである。