「光りの子供らしく」(3)

† まかせる勇気。
 野球の監督が、経験の浅い新人を起用する時、ベテランの選手がいることを思えば、大きな賭でもある。エラーをしたり、チャンスにヒットを打てず、チームが負けるリスクがある。職場でも、企業組織でも「まかせる人」を誤れば、大きな損失に繋がる。これらの事は、地上の事柄において現実のことである。しかし、私達が「勝つ」と言う事において、間違いのない約束の言葉が響いている「・・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」ヨハネ16・33)私達が、光りの子供として、ふさわしく「らしい」のは、勇敢(勇気持って)主キリスト・イエスに完全依存することである。これは使徒達だけの信仰ではない。私達にも、神にまかせ切る信仰が、神から与えられている。地上の尺度ではなく、永遠の尺度から見れば、万物と生命の創造者に、自らを、全てを任せることが確実で正しい選択なのである。聖霊により「神を知ろう」弱い自分に引きづられないためである。主にまかせれば必ず勝てる。

† 育て続ける。 
 人間とは、言うなれば、動物的な「生身」であると言うことである。生きている実感は、生身の五感をとおしてである。同時に、人間は「霊(神の息)」を内在とする。「 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 創2・7)生きものである、人間としての動物的感覚は自然に成長し完成(大人)にいたる。しかし、見えない神の霊を本質とする人間は、自然には成長しないのだ。まず、人間を覆っている罪を、主イエスの血潮で取り除かれねばならない。同時に、保証された、永遠の生命と来るべき神の国を現実として実感するには、救われた魂(人格)を育て続けなければ完成しない。人間は動物的自然性でも、知性と道徳性を持って生きてしまう。だが、罪を赦され、神の霊を宿すことを知った私達は、神に育てられなければならない。生命のパン(神の言葉)から霊的人格を育てられ、私達の完成である主イエスに目を注ぐことによって導かれる。このように、常に育てられ、終わることなく続けられるのである。それを喜びとしているのが「光りの子供」である。

「光りの子供らしく」(3)