「光りの子供らしく」(4)

† 日常の必須。
 何かに係わる事とは、どう言うことだろう?それが喜びである。または、面倒なこと。に分かれる。先日も、ある方が3週間、犬をあずかったそうである。娘の愛犬だったのでやむを得ない。この犬は、家の中で面倒を見なければならず、酷暑の中いつも冷房の利いた部屋が必要だった。この犬のために、常に誰かが共にいること。そのために外出も、ままならなかった。大変だったことが伝わってくる。犬が可愛いと感じられないならば、苦痛でしかない。我が家のベランダや部屋の中には植物が置かれている。日常必須なことは、毎朝水を注ぐことである。私の執務室にも、入口にも植物が毎朝の水を待っている。この面倒から解放されるためには、係わりを撤去し、縁を切れば良い。しかし、係わり続けるのは、楽しみと喜び、心の癒やしを与えられるからだ。さて、私達クリスチャンには、毎日に必須なことがある。即ち、毎日(毎朝)神と係わる「交わり」を続けるディボーションである。主なる神こそ、あなたに最大の力と希望を与えて、活かして下さるお方だ。花や植物の面倒を尽くして、見返りを喜ぶ程度ではない。聖書を開き、御言葉を噛みしめ、祈るならば、神の霊力を自分の全身に行き渡らせるのである。これを面倒がらず、日常の必須とすべきである。

      
† 霊を常に新しくする。
 「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」エペソ4・23-24)人間の存在力を決定するのは、人格の最も奥にある神を認知できる「霊」である。光りの子供らしく成長するには、「霊」において新しくなることなのである。「・・・・ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」詩51・10)幼年期の霊性、青年期の霊性、熟年期の霊性と、霊は年を経ると共に「新しさ」に向かって成長することを求める。使徒時代も現代も関係なく「・・・・わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」エゼキエル37・14)私達は、生ける神の霊によって新しく生き返るし、新しく霊的な領域に成長する。主イエスを知りたいと尋ね求めよ。主なる神の憐れみと慈しみを尋ね求めよ。真理の奥義を尋ね求めよ。求める者は、必ず霊が新しくされ向上する。

「光りの子供らしく」(4)