「光りの子供らしく」(6)

† 御足の跡を歩む恵み。
 私達は「光りの子供」として自認し、生きる事を求められている。主イエスのように(歩まれたように)歩む事を願っているから、光りの子供「らしい」のである。主イエスの足跡は消されることのない、万人の拠り所である。主の足跡に踏み込めるならば、神の平安が誠に伴うのである。主の足跡をたどると、十字架と復活に繋がっている。主イエスの歩みは、神の救いの御業のために続けられた。光りの子供は、愛の道が十字架と結ばれている事を知っている。光りの子供は、罪の刑罰(死)の恐怖から、光り中に取り出された恵みを決して忘れない。さらに、私達の地上での必要を与えて下さる。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」詩37・25)御足の跡を歩むならば、聖霊様が「助け主」として伴われる。「そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう」ヘブル13・6)主の御足の跡を歩むことを求める人は、光りを放つ神の子供であり、神の恵みに囲まれて、歩んでいけるのである。

† 一体となって生きる。
 私達は、「キリストの平和」に支配されており、感謝する心が、生きる動力になっている。感謝の心が日々にないならば「光の子供らしく」ないのである。私達は、キリストと一体であるばかりでなく、キリストのからだ(兄姉)と一体である。教会という全体の交わりが「キリストの」平和で結ばれ、互いに感謝の心で結ばれて「一体」という生命を現すのである。光の子供は、キリストと一体であることを喜ぶ「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」ロマ6・5)口語訳「彼に結びついて」新共同訳「キリストと一体になって」となる。一体となるのは「キリストの死」である。なぜならば「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」 ロマ6・8)教義的な死ではなく、キリストと共に「私は死んだ」と宣言し、この世に死んだ者として、キリストに生かされて生きる。この一体こそ、光の子供の真骨頂なのである。

「光りの子供らしく」(6)