「光りの子供らしく」(7)
† 最も高きところへ。
無理難題のことではなく、至極当然な、光りの子供の高嶺のことである。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)光りの子供は、すでにキリストと共に死んだ者であり、この主イエスにあって甦えっているばかりでなく、主と共に天の所に座っているのである。与えられた信仰の最高峰がここにある。それは、夢でも、たわ言でもなく、神がお与えになっている、恵みの真実な中身である。世に在って私達は、その高嶺に座ることが出来るのだ。第三の天に引き上げられなくても、誰もが到達できる「恵みの高き嶺」(聖歌589番)である。高き嶺を目指して祈りつ、歌いつ、登って行くのが信仰の喜びであり、スリルでもある。これは、キリスト教を極める神学とは異なる、霊的な神の出来事との遭遇である。また霊的奥義でもある。とにかく、神との人格的な関係から生まれるものである。天に座って、地上の生活ができることを御言葉は言っているのである。驚くべき実態が私達のものなのである。光りの子供として、私達は最高の目標を目指して、歩みたい。
† 祝福を受ける格闘。
ヤコブは、ヤボクの渡しで全員を渡らせたが、ヤコブは一人残った。「・・・すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。・・するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」 創32・24-26)このような、神との格闘(係わり)が、私の信仰生活にもあったと思い返せる。ヤコブのように「祝福して下さらなければ」と言うようなものではなく、むしろ「理解出来ていない」「体験していない」という自らの不足感から、主に迫り続けざるを得なかったのである。「光りの子供である」と、自らを任じられるとすれば、神を知りたい、聖書を知りたい、主イエスを知りたい、飢え渇きだったと思える。その結果「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです」2コリ4・13)世に在る限り信仰は、継続させるもの、成長させるものでありたい。すると、神は、最高の祝福を用意して与えて下さる。