「傾向性への警戒」(2)

† ただ健全に向かう。
 主イエスを信じたら、何が始まるのか?喜びと、真理の自由の生活が始まる。主イエスを信じて、初めて気づいたことは「感謝」することが、生活の中に生まれたことだった。信仰の初めは感受性が豊かで新鮮に満ちている。そして、信仰は生涯を貫くものである。1年戦士もいれば、60年戦士もいる。ただ、信仰はその人の自由な個性に任せられていないことである。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」2テモテ4・3-4)健全な教え、健全な良心、健全な信仰(行為)が、信仰生活の推進力となる。なぜかならば、私達の中に在る、不遜な傾向性を従わせ、神の御心に適う真実な自由と喜びを生きることが出来るからである。「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」テトス1・9)アーメン。

† 努力が足りない。
 これは私の小学生の通信簿に書かれていた先生の言葉である。努力さえすれば「・・・・なるのに」という先生の嘆きが込められている。しかしながら、改められない私であった。その重要性を知りつつも出来なかった。私の潜在意識が変えられる必要があったのである。主イエスは世の光りとして、同時に人の潜在的な闇を光りに換えられる。「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」Ⅱコリント4・6)「私達の」は、どのように照らされるのか?次のようである「明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる」エペソ5・14)心の闇を持つ人は、どうすべきかわかっていても出来ないのである。心の潜在的な闇が、顕在意識を不自由にするからだ。心の闇の中に、光である主イエスを迎えれば良い。照らされて光りに起き上がれるのだ。ハレルヤ!

「傾向性への警戒」(2)