「傾向性への警戒」(3)

† 知り尽くされている。
 最も安心なのは、主なる神が私達を知り尽くしておられる事である。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます」詩139・2)安心して、勇敢に主を信じ続けられる保証である。しかし、そのような私達を知り尽くす者として悪魔が存在する。悪魔は私達を傍観しているのではない。見えない風を見分けるが如く、私達の心の中身と動きを瞬時に察知している。悪魔と対峙しない信仰は、悪魔の手中に簡単に陥る。悪魔はこの世の優れた思想家であり、世界の尖端を行く、ときめく、きらびやかな自由と喜びを提供する実在である。私達の今までに聞いたことのないような、魅力的な言葉さえ語る事が出来るのである。悪魔は、人間の弱い傾向性を最大限に用して、悪魔の支配下(この世)に従属させるのである。私達クリスチャンに対しても狡猾(コウカツ)である。私達の信仰の意気が下がり、霊的活性の衰えの時を、待ち構えている。そして、神への従順から、自己愛への信従に置き換えるのである。神よりも、人間が優位性をもつ信仰にする。これが悪魔の思い通りなのだ。「真の信仰など」今の教会にはない。と、ほくそ笑んでいる悪魔なのである。

† 挑戦する幸い。
 私の霊的なブレイクスルーは、小学5年生の時に始まる。鏡を見るように「見えた」のは、弱く力のない自分であった。「少年よ大志をいだけ」と言う言葉の前に、それが出来ない自分を痛切に知ったのである。誰にも言えない自分への挑戦が起こった。強くなるには、どうするのか?一つ、光りとなったものがあった。世界少年少女文学全集を読み尽くした中に、ビクトル・ユーゴの「ああ無情」もあって感銘を受けていた。17才になって聖書を買い求めた。それで主イエスを信じられるわけはない。君はどの宗教を信じる?と問われた時、キリスト教です。と、挑戦的な発言をしたの覚える。5年生の時から、神への挑戦は続いている。「・・また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」 エペソ3・18-19)挑戦することで、弱い傾向性を克服出来ればと思っている。

「傾向性への警戒」(3)