「傾向性への警戒」(5)
† 面子を保つ。
誰もが自己尊厳性を持っている。それを卑しめたり、軽くあしらったりすることは品位のない人のする事である。「隣人を愛せよ」ということは、隣人を尊敬せよ、と言うことに繋がっている。言葉を代えるならば「人の面子をつぶして」関係を築くことは出来ないということである。もう一つは自分の面子(メンツ)を立てる、と言うことがある。ある意味で、自分に「箔をつける」重みや貫禄を装うことである。ある種の見せかけでもある。主イエスは、パリサイ人の人前での振る舞いには嫌悪を示された。人は、ややもすると、そういった傾向性を持つ。主イエスは、神の子でありながら、面子や体裁(テイサイ)にこだわる事をされなかった。「イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」マタイ8・20)この主イエスに目を留めていると、自分を、できた何者かに見せるような事は、恥ずかしすぎるのである。私達の報いは神から受けるのであって、自分を見せびらかす必要などないのである。「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである」2コリント10・18)そういう人に私はなりたい。
† うっかりの傾向性。
聖書の中に「うっかり」という語句があるか検索するとゼロである。しかし、私の生活の中では、この「うっかり」が、多く関わるのである。聖書の中でも「うっかり」してしまった取り返しのつかない事件が書かれている。士師記11章の「エフタ」である。彼は、アンモン人との戦いを前に主に誓願をたてたのである。アンモン人に勝ち:無事に帰って来れたならば「わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげます」31節)と、主は敵をエフタの手に渡されたので大勝利を遂げた。そして、家に帰ると、一人娘がタンバリンを鳴らして戸口を出てきたのである。誓願を立てるとき「一人娘」のことを「うっかり」気にも留めていなかったのだ。これが、大悲劇となったのである。うっかりは「気が回らない」ため起こる。また、「忘れた」ことが、うっかりの原因ともなる。このような傾向性は、さまざまに起きているのが現実である。