† 嫌われること。
誰でも、あえて嫌われることを望まない。また、人がやらなくても、自分は、やらなければならない事がある。自らに信念があるなら、このような問題はいつも起こってくる。パウロが教える「正しい良心と偽りのない信仰」1テモテ1・5)は、あえて、嫌われることを語り、指し示すことを促してくる。それは人気を得る道とは距たるが、聖なる神のために、そうでなければならないと迫るのである。人の側に立って語る牧師もいるし、神の側に立って語る牧師もいる。理想なのは、神の側に立って、人のために語る説教者ではないかと思う。人が生かされ、建て上げられる道だと思うからである。神は決して人間に媚びるような主体ではない。しかし、無条件の愛を、意識的に私達に注がれている。でなければ「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」Ⅱペテロ3・9)など、なさらない。神は恐るべき裁き主であり、測り知れない愛の神である。私は人々に好かれたいという本姓(傾向)から解放され、聖さゆえの厳しさと、赦しの愛の優しさを兼ねた、御言葉の証人として、なお歩み続けられることを願うのである。
† 遠くを見、近くを見る。
私達の目は、遠近両用である。近くであれ遠くであれ瞬時に、焦点が合うのだから驚きである。高性能なカメラでもそうはならない、しかし、遠くの物体(被写体)を何倍にも大きく見させ、焦点を合わせてくれる。私達の傾向性は、身近な、今のことに捕らわれ、先が見えなくなり窮地に陥ることである。見えているのは近距離だけなのだ。大事なことは「遠くから、今を見れる」ことである。考えてみると、私達クリスチャンは「遠近両用の人生」を生きている。神の愛は、永遠の神の力である。遠くを見るということは、主なる神を見つめる(思い起こす)ことである。今を生きる時、地上的な必要と問題、年齢に伴う生活の変化や、健康の問題がつきまとってくる。感覚的には身近なことが重大なのだ。だから、永遠の神に向かえ「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」 マルコ16・4)私達の負(マイナス)の力はプラスに解決するのである。