「私でしかない」(3)
† 肯定的な私である。
私でしかない。という内容は、肯定的な私のことである。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」マタイ22・14)招待されたのは、主イエスであるが、選ばれるのも主イエスである。選ばれる光栄に預かった者としての私は、「主にある私でしかない」という意味である。99%の人々が、私と違っていても、私は「私でしかない」肯定的な信仰の生き方を貫くのである。時代によって信仰の様相も変わる。内村鑑三は教師であった、軍国化の流れの中で、教育勅語が唱えられ、天皇礼拝としての「礼」が求められたが、鑑三は一人行わなかった。「不敬事件」として、国家総体を挙げて、キリスト者鑑三を迫害し、晒(サラ)し者にした。それは想像を絶する酷(ヒド)いものだった。鑑三にとっては、神に選ばれた、真の「私でしかなかった」神に在る、肯定的な表明であった。日本にキリスト者あり、と内村鑑三は世界で最も知られる神の人である。現代のクリスチャンは「招かれている」のか、自覚的に「選ばれた者」なのか、境界線が鮮明ではない。信仰とは、自分を神に捧げて生きるのである。それが「選ばれた人」の認識である。神を信頼しきれないのは、肉的自己愛に生き続けているからではないか?
† この世界は驚くにしかず。
AIが次期の世界の主流になる。とは、つねづね聞かされている。人間は、終わりの時代には「・・・多くの者は知識を増そうと探り回ろう」 ダニエル12・4)それで次々と新しい時代が開かれてくる。AIの世界では、今の電力の百倍も必要とする。このネック(妨げ)を巡る覇権の争いも起こる。さらなる問題は「霊的な砂漠化」である。世の中の進歩は、霊的な世界と反比例する。人間中心となり、知識(技術)優先となり、見える世界が、全ての土俵なのである。悪魔のほくそ笑む世界なのである。主イエスも使徒達も、今のこの時代を知らされ、知っていた。何を確信しておられるのか?この世界がどの様に「神に敵対しょうとも」驚くに如(シ)かず。即ち、驚くことではない。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」1コリント1・18)神の力とは、 道徳の荒廃した姦淫の世界の中で、神の聖さと輝きを私達に持たせ、歩ませる「力」なのである。