「私でしかいない」(4)

† 私自身を受け入れる。
 セネカは「人生の短さについて」の中で、かく言う「おまえがそんなことをしたのは、他者と共にありたかったがゆえではなく、自己と共にあることに耐えられなかったがゆえなのだ」と、一刀両断にしている。重要な事は、人は様々ことに没頭したり、欲望に束縛され、自分自身という自己を失ってしまい、そういう自分に耐えられないのが、君の実情だと言うのである。何かのためでも、誰かのためでもない「私自身を生きる」ことが、人生の真の有意義であり、短い人生を、長く生きることなのだ。というのである。クリスチャンも、うっかりすると「何々のため」「誰々のため」と慌ただしく生きて、自分自身を置き去りにしてはいないだろうか?キリストは「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」マルコ16・15)と言われたが、その前に罪を雪のように潔められ、キリストの生命の中に「自分を取り戻し」聖霊の与える恵みと力の中に生きている。それは、喜びを持って、私自身を愛する「私でしかない」者になったのである。全世界に出て行ける人は、福音の理想主義者ではなく、自分自身を喜び受け入れ、自己を愛する、まことに神に回復された人である。福音にふさわしい人なのだ。

† 警告する人となる。
 教師と教育者違いは何か? いずれも「教える人である」教師はひたすら教えることに集中する。教育者は、教える生徒を慈しんで人格を建て上げる。そのような意味で、両者の違いを教えられた。教会の事業は、教育者と同じで兄弟姉妹を建て上げることである。さらに、重要な事は「警告の人」として「否は否」マタイ5・37)と語り、世の悪について、堕落について警告をする人である。それには自らが悪と罪とに立ち向かっていること。いづれにしても、主イエスに結びつけて「建て上げる」のである。第一に、健全に見る目(マタイ6・22)を持たせる。第二に、健全な教え(テトス1・9)に留まらせる。人の成長は教会の成長ある。そして、その成果を声高らかに唱える。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。詩1篇2-3節)これが私達である。

「私でしかない」(4)