「私でしかない」(6)

† クリスマスの私。
 主イエスの降誕を迎える。クリスマスは人類のお祝いだが「クリスト・マス(救い主を礼拝する)」ことである。これは儀式ではない。「私の主。私の神」ヨハネ20・28)として、私がひれ伏し服従をして行く事である。主イエスの弟子トマスは、非常に疑い深い深く、信頼出来る友であり、使徒達の証言さえ疑った。イエスが復活されたなら「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」ヨハネ20・25)と憮然(ブゼン)としていた。そのトマスの前に復活されたイエスが現れ、手の傷を見せ「私の脇に傷に手を差し入れよ」と、言われた。この時から真実の礼拝者(神に服従するトマス)になった。真の「私となった」トマスは、遠くインドまでも、神の出来事としての福音を宣べ伝えたのである。キリストを信じた頃の私には、クリスマスは、救い主の誕生という記念の祭りであり、それほどの大きな感動は起こらなかった。信仰生活が長く続いても、十二月にある行事のように思われた。しかし、キリストの偉大な御業である十字架と復活が、トマスのように「私の現実」へと導かれ、クリスマスは一変したのである。神が人となられた受肉の秘義(クリスマス)は、とてつもない真理として、毎日の感動であり、喜びであり感謝の源となった。そういう「私になった」のである。

† 直接か間接か。
 人間を見る中にわかってくることがある。曖昧に生きる人と、真実に生きる人である。どうでも良いような枝葉の問題には、真実を突き詰める必要はない。そうではなく重要な「人間が生きてゆく使信」に関わる事柄には、真実に生きることを求めるべきである。曖昧とは何か?神に選ばれ、真実に生きることを教えられた人々が「曖昧に生きる」ことである。神の指し示す価値観とは違う価値観を引き込んで、都合良く生きることを「選んでいる」のである。そういう曖昧さこそ「賢さ」なのだと思い込みやすい。世の中を見れば、そういう賢い生き方をする人が、勝ち組に見えるであろう。だが「まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます」詩73・18)「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」ヘブル10・31)と、なるのである。 

「私でしかない」(6)