「私でしかない」(7)
† 十字架に共に死す。
原語に忠実な永井訳では「我はキリストと同(トモ)に十字架につけられたり。されど、我は生く、尚(な)ほ我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給ひ、且(か)つ我がために己(おのれ)自らを付(わた)し給ひし神の子の信仰にありて生くるなり」ガラテヤ2・20)使徒パウロの最大の喜びは、過激なパリサイ人サウロが、キリストと共に十字架に事実として死んだことである。死んだパウロが、尚生きるのは、聖霊によりキリストが人格として宿られているからである。ここまでは、わかりやすいが、ここからが重要で、目が開かれる必要がある。第一、キリストが我が内に居られる。ならば、キリストの人格があなたの人格になる。第二、キリストの人格は、キリストの信仰を伴って内住されるのである。だから、パウロは「神の子の信仰に存(あ)りて生くるなり」と言っている。キリストの信仰の内容が、パウロの信仰なのであり、それは選ばれた神の子の信仰の本質である。私はパウロと同じように「主イエスの信仰に存りて」生きる者である。単に、キリスト「を」信じるのか。キリストの信仰の内容を信じて生かされるのか、雲泥の差が生まれるのである。私は死んだので、主イエスが内住され、聖霊に生かされるのである。
† 新しい日々が続く。
主イエスにあることは、毎日が新しい真理の発見であり、驚きである「・・・わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう」イザヤ48・6)科学技術の進歩、物理学や人体に関する医学的進歩は著しい新しさを明らかにしている。同じように霊的真理が伴って新しくされて行くのである。一方、地上では人間の醜い欲望の戦いが戦争となって世界を揺るがしている。これらの事は非常に興味深い、これらも神の御手の中にある週末への出来事だからである。新しいとは、古いものを脱することである。また、理解や知識が進歩することである。原子が全てを構成している理解から、今や量子物理の世界が新事実を明らかにしょうとしている。これらの出来事は神の言葉を新しい理解へと導くのである。霊的であるもの、見えない魂(人格)や、神は霊であるなどについて、新しい発見が生まれるのである。