† 信じる者に起こる。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」ヨハネ7・38)クリスチャン生活の特徴は「腹から」即ち、私という中心から、生ける水が流れ出る。主イエスは、いける水を惜しみなく流された。私達も同じ立場にあるが世の中にあっては、それほど流れ出されていない。しかしながら、キリストの身体としての教会では、豊かな生ける水が満ちている。一人一人がキリストにあって自由であり、御言葉が語り合える喜びがあるからだ。生ける水は、神の御言葉であり、また信仰の体験としての証詞の言葉でもある。恵みに満ちた証詞の言葉は、そこにいる一同の兄弟姉妹に感動を与える。教会には未信者の方々も来られるが、信徒向けの礼拝メッセージが理解しにくいことが多くある。しかし、信徒の信仰生活からの証詞は、実際的に主なる神の働きが流れ出ることで興味を持って受け止められている。日本のような非キリスト的世界で、神の生ける水を流すことは容易ではない。しかしプレ・エバンジェリズム(伝道前の伝道)による、友達作り、小グルーブによる楽しい活動によって未信者の方々が、生ける水の水際(みぎわ)に導かれる。この年も一人の救いのため、生ける水を全員で流し出して行きたいと思う。
† 水の上に投げる。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」伝道11・1)現代的に言うならば「投資」に当てはまる。一つにまとめるのではなく、多角的に行え、やがて報いが現れる。これは、福音伝道の事をも現す。文字として福音があまねく配布される。ラジオを通して、テレビを通して隅々までにも、救いの福音が伝えられる。あたかも水の上にパン(種)をまくようなものである。そのような宣教によって、救いに導かれる人が、5年後、10年後さらに後になって現れ実を結ぶのである。EHC(全国家庭文書伝道協会)を通して、可児市をはじめ近隣の未配布地域に、福音文書を配布した。遠くは東白川町まで全件に配布した。トラクトは三浦綾子さんの「私を変えた愛」だった。そういった水の上に種をまいたことは、神の御心に適い、現在の祝福を刈り取る事に繋がっているものと思う。