「生ける水を流す」(2)
† 湧いてくる水。
山の中腹くらいの谷に、大きな岩があった。その岩の下から水が湧いていた。子供時代に「ここからか!」と感動した瞬間だった。この涌きでていた水は、裾野の方ではザワザワと音を立てて流れる谷川となっている。小さな水源が谷に合流し、清らかな水流となるのである。水の特徴は「飲まれる」ことにある。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」1ペテロ2・12)私達はそれぞれ違った環境に置かれているが、それは神からの生命の水が、その場所に持ち運ばれているのである。清らかな水は、ある時は優しさとして流れ、ある時は助けたり励ましとして流れる。神の言葉は 具体的な「生命の生ける水」である。これを流して飲んでもらうことが私達の証詞伝道である。私達に湧く新しい生命は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」ガラテヤ5・22)であり、神を知らない全ての人が渇いて飲みたい水である。与えるとさらに豊かに湧いてくる。
† 渇いていないとは?
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」イザヤ55・1)神の救いは無償である。苦難の下僕(十字架のキリスト)の手が差し延べられている。さて、現代人は「自己の渇き」に向き合う勇気を捨てたのか?あるいは、自己を知らないまま、代化物(世の物)に溢れて生きているのか?ちょうど、渇きのない人は、腹を満たした魚と同じで「餌」には見向きもしない。福音という人間に最も必要な「パン」に、見向きもしないのは現実で事実である。では、宣教は無駄なのか?もの凄く必要である。日本人伝道の起点は(-10)から始める。「罪・神・救い」の以前に「日本人」を覚醒させる必要がある。今や、どこの国の人でも同じような傾向である。主なる神は、人々が「生ける水」を飲みたくなる樣に、渇きを起こさせる宣教と、サタンの力を壊(こぼ)つ祈りの力を求めておられる。「・・・この世の神が不信者の思いをくらませて・・・」2コリ4・4)いるからである。