「生ける水を流す」(3)
† 生ける水の本質。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」黙示22・1-2)この水晶のような命の水は、御神と永遠の贖い主となられた主イエスの御座から流れ出ている。エゼキエルは、神殿の敷居の下から水が流れ出ている光景を見た(エゼ47・1)。生ける水は、神の御座から流れる。これは、神の本質的な永遠の生命を現しており、私達が飲んで実感出来る「水」として流れている。この時代にも御子イエスが犠牲となられた十字架(祭壇)の下から、人を永遠に生かす「生ける水」が溢れ流れている。「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ」エレミヤ17・13)主イエスに従わず、誠実を疎(うと)む者は、神に生命を潤されることより、自分勝手を生きることを現している。「私達すべてのためにその御子をさえ惜しまず死に渡された方」ロマ8・32)が、どの様な判断をされ、裁かれるかを考える必要がある。神は聖く誠実な方であるからだ。
† 生命の木が実をつける。
「・・・川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」黙示22・2)完成された神の都の中央を、生命の水の川が流れる。元始のエデンの園には、園を潤す一つの川が流れており、園の中央に「生命の木」が植わっていた(創2・9-10)。しかし、神の都では川の両岸に、いのちの木が植わっており、常に実を結んでいる。「わたしを信じる者は・・・その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」ヨハネ7・38)と、主イエスが宣言される。それは、旧約時代の「生命の水の流れ」の成就として、イエス御自身が「生命の泉」なのであり、信じる私達からは「生ける水が流れ出る」ご聖霊を象徴している。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)生命の水に根を張るので、生命の木となる。イエスの十字架の元から、生命の水は流れ出ている「十字架のかげに泉湧きて」聖歌396番)飲み続ける者は、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。