「生ける水を流す」(4)
† 与えられて流す。
今、あるものは与えられるが、今、無いものは与えられない。私達は長年の信仰生活をしていても、常に霊的な全てを、備えているわけではない。気乗りがしないまま、御言葉が思い浮かばず、語るべき言葉が枯渇し、流すべき豊かさを欠いていることがある。私達は与えられなければ、与えられない。私の信仰は「所与」(他[神]から与えられたもの)であり、生ける水も、私達の心の奥底にできる泉も、与えられているものである。「・・・説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」1ペテロ3・15)第一に、キリストを主としてあがめていること。第二に、福音について語れる準備をしている事。これを怠らないならば、私達は与えられ持つ者になり、備えて豊かに流せることが出来るのである。確かに、準備をするから、語るべきメッセージが成りたつ。毎日の備えとして務めたいことは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)である。忘れられていないものが、流せるもの、泉にとどまっている恵み(いのちの水)なのである。しかしながら、なまけて怠るならば、泉は枯れ、流れ出るものはない。と言うことである。
† 神が行われる弁明。
「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」 ルカ12・11-12)このような最も難しい場面で、神ご自身が私達を弁護し、語るべき言葉(知恵)を教えられるのである。聖霊とは神ご自身である。試練とは、信仰の困難な時、迫害であり攻撃を受けるときである。「・・・あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」1コリ10・13)これは、神に完全信頼を持って臨めば大丈夫ということである。神に完全に依存さえすれば、主なる神が語られ、道は開け脱出できるのである。私達に恐れる必要はない、勇気を持って歩もう。「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神」 詩18・46)