「直視できる霊へ」(1)

† 霊的直視を不可能にするもの。 
 人間には直視できないものがある。まず、身近な太陽である。キリスト以前の世界では、ヤーウェー(神)を見る者は、すぐに死なねばならなかった。このような物理的な「目」による直視のことではなく。私達の奥深い心が「見る」もの、「見ようとしない」こと。さらに、「霊」において直視すべきものと、霊において「直視」を避けようとしている事などを、静かに想い巡らしたいと思う。人間とは、取捨選択(シュシャセンタク)しながら生きている。そこには、あくまでも保全的な自己が居て、都合の良いものを選び、大事なことでも棄て去る自己がいる。さらに最も深い「霊」において、正直で誠実でないならば、主なる神の大切な干渉を断ち切り、導かれることから、御声を聞くことから、自ら拒絶してしまうのである。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」ヘブル12・14)主の働き(干渉)がなければ聖くなれない。さらに、私自身が聖くなる事に同意しなければ、聖くなれない。この真理を「直視」するとが、霊において「直面して行く事」である。ありのままでは聖く成らず、キリストの身丈に成長して行く事も成らない。御声(御言葉)を直視し、直面してゆく人(霊)は、御神を収穫する。

† 主なる神は心を探られる。  
 「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら:神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる」 1歴28・9)多くのクリスチャンは、主なる神に自分の心を「探られている」ことに、無関心である。私の「すべての思いの向かうところ」が、私の「霊」の赴きなのである。誰でも、御声(御言葉)を直視して、神を求めるならば、神は、ご自身を現してくださる。しかしながら、今までの自分通りを貫きたいならば、主なる神も「私達を見切られる」のだ。私達は聖徒と共に祈ろう。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」 詩 139・23)

「直視できる霊へ」(1)