「直視できる霊へ」(2)

† 勘違いの結果。
 これは自分のことである。ある仕事上の指示を受けて、成し終えたが、勘違い(理解の間違い)で、やり直しを余儀なくされた。聞き取ることの能力不足であり、性格的な欠陥でもある。これが真実な自分である。そういった事柄が、これまでの人生に多く、まことに申し訳なかったと悔いるのである。同じ失敗をしないように、主イエスからの警告の霊と受け止める。人の人生の多くを見ていると、人のある時には、火の勢いの様な、going my way(ゴーイング・マイ・ウエイ)が見られる。活気に満ち、何をしても栄える。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3・1)このように、絶頂にも「時」があって衰退があり、火が消える。人は世に生きるならば、当然として味わう事である。私達クリスチャンは、あの絶頂の時も、この時も、変わらないで「善かった中に」生かされる。勘違いしてはならない事は、「主イエスの中に生かされる」ことが、常に最上である。と言うことである。神が言われた「・・・それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」創2・17)その、善悪の知識の木の実とは、主イエスに生きることから、目をそらすとき「見える」もの(実)→欲望的な願望である。

† 主の恵みのみ。
 2025年は宣教50周年の年である。初めての会堂建設と同時に宗教法人を取得した。7年を経過した1989年8月に、記念誌を刊行した。「恵みによりて」が表題である。使徒パウロは「・・・神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」1コリ15・10)と、神の恵みを、「与えられた王冠」のように、恵みを最大の原因として生きた。パウロのように、神の恵みが染み込んだ生き様が、私達の願いとなるべきである。可児福音教会の、これからの50年も、神の「恵みによりて」満たされ、導かれ、そして、恵みによりて「多くの働き」をすることが、出来ることである。これを直視すべきなのだ。ちなみに「恵みによりて」の記念誌は、私が全ての原稿を活字にして、写真を切り貼りし印刷したものである。時代を反映した記念誌であった。 

「直視できる霊へ」(2)