「直視できる霊へ」(3)

† 添え物である。
 主菜(メインディシュ)に沿えるもの。そういった付属する役目が、主イエス様との関係で意識される。多くの立派な神の器が、謙遜にへりくだっておられるのには驚く。そのような身分を喜びとして見つめられる人もいれば、「私はあなたと同様よ」と、ばかりに堂々としている人もいる。私が30代の頃、北欧から来られた牧師達と寝食を共にした事がある。ある夜、ある方の就寝前の姿を見た。彼のパジャマはヨレヨレで、すり切れていた。貧しさを現しているのではなく、主の下僕としての「おごりの無さ」を強烈に観じさせられたのであった。その有り樣(ヨウ)を直視して、自分の見方も変えられた。主に在っては、私は主菜ではない。添え物である、しかし、惨めではない。「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」ルカ17・10)ここにこそ、輝きがあることを知るのである。この様であれば、私は完璧なのだと思う。「下僕」とは、添え物のようでありながら、神のお言葉を成し終えて、実は大きな称賛を与えられるのである。「・・・人はうわべを見るが、主は心を見る」1サムエル16・7

† 神に帰する秘訣。
「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか」創18・25)アブラハムが、ソドムに住むロトの家族を救うために、神に訴えた言葉だ。神の御使いは、50人の正しい人がいれば、その町全部を赦す、と約束された。実際は10人も居なかった。ソドムは天の火で焼き滅ぼされた。 現代の世は、神の正義とキリストの赦しを知りながら、他国を侵略し殺戮(サツリク)を平然と行う。自分に都合の良い歴史解釈をして、正当性を公言する。「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる」詩10・4)私達はさばく権利を神にゆだねる。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」ロマ14・10)極悪非道な自分を見る事、見せられることは恐ろしい事である。

「直視できる霊へ」(3)