「直視できる霊へ」(4)
† 恥じない姿か?
世の中に生きていて、恥じることなど何もないと感じる。ただ「あなたは、主イエス様の目に適う姿か?」と、問われることに「直視」できる人は、少ない。全く、そんなことに気付くこともなく信仰生活を送っている人が多いのである。古来より人間は、そこまで自分を、神に近づけて生きる必要はない。と、今の姿(生き様)を肯定する、自己保全の本能(脳の働き)があるからだ。教会に預言的なメッセージが語られるが、主なる神は、受け取る一人一人をターゲットにして居られる。教会が善くなるのは「十把(ジッパ)一絡げ」ではなく、一人、また一人というふうに影響力が及ぶのである。しかし、「十把一絡げ」の人々が、主の目に適う人々であるならば、事態は一変する。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした」使徒4・29-31)教会のリバイバルの理想がここにある。まことに、神に近づく人々が起こされることである。この真の当然に、改心して行きたいと思う。
† 戦うことで確立する。
ウクライナは、2022年3月3日ロシアによって侵攻され、戦争に突入した。当時ウクライナは、破綻国家であり、1991年の独立以来、人口流出と出生率の低下で1100万人もの人口を失った。オリガリヒ(ロシアの大富豪)に支配され、汚職は常規を脱し、国民も国家も売りに出されているような常態だった。この崩壊状態にあった、ウクライナのロシアへの、激しい抵抗は、誰も予想だにしなかった事態を生みだした。戦争を通して、「自国の存在理由と存在の正当性」を見だしたのである。侵攻の前夜のウクライナは、安価な「代理母出産の地」ともなっていたのだ。これは今、私達が見ている現実である。教会も、個人も、戦うことで確立する「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」1サムエル17・47)主の祝福は、主の戦いを戦っている人にある。