「直視できる霊へ」(5)
† どこに立つべきか?
マルチン・ルターは「我はここに立つ。他になしあたわず。神よ我れを救い給え。アーメン。」と言った「ここ」というのは場所のことではなく「神の言葉」の事である。神の言葉に立つ以外に無いから、神よ我を救い給え。となるのである。聖書を鳥瞰的(チョウカンテキ)に見るならば、筋書きは単純である。神は全罪人を、罪なきご自分の子供とするために、イスラエルをご自分の民とし、メシヤ(御子イエス)を生まれさせ、十字架の死を通して罪の贖いを完成されたのである。復活を通して主イエスは、父なる神の右に挙げられた。その目的は、この世に生きる私達に、主イエスが遣わされる聖霊によって、力を授けること。結果、主イエスのような品性と人格を持って、遣わされている家族、親族、友人、隣人に、神の救いを伝道することである。「ここ」に、救いを受けた私達は、立たされているのである。私達(神の子供)は、この世で、どんなに優れた活躍をしょうと、個人伝道が出来なければ、神の愛のご計画は達成されない。教会がどの様な企画、プログラムをするにしても、聖霊の体験(刷新)を最大限に重じて、個人伝道の能力とすべきである。この真実に「立つ」ことが、私達教会の希望であり、未来となる。
† 自らの訓練。
一つの思いがきた。秋の運動大会の企画が実行されたならば、どの様な競技にも間に合うだけの「動きが出来る」身体を作ろう。メインは、ソフトボールかも知れない。・・・週に一度、ジムに行くので、足腰の強化を図ることにした。自転車30分で、13㎞近くを走り、次いで10個近くの様々な機器で、身体の各所を鍛え、終わりに走行マシンで走る。今回は今までになく、腰から下に3日たっても、筋肉痛がまだある。しかし、軽やかに動ける身体になる事は幸いである。ただ、何十年もキャッチボールをしていないので、肩が衰えている。何かで訓練したい。もう一つ、自ら成すべきは「・・・むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい」1テモテ4・7)神を畏れ敬うことは、自らの問題である。他の聖書は「信心のため」と訳すように、自分の心を神に服従させる鍛錬である。御言葉を読み、祈り、神の御心と真理を深く学んで従う事である。そのような人は聖霊の喜ばれる器として、神に愛される人となる。