「受容という技量」(1)
† わが主の技量。
受難週を迎えると、主からの大いなる挑戦を受ける。十字架を背にし、よろめきながら足を踏み出されるイエス様を見る。身体はムチで打ちたたかれ、血まみれになり、頭にはイバラの冠を押しつけられ、顔面も血だらけである。「ほふり場に連れて行かれる羊のように・・」使徒8・32)ここには、「たぐいまれなるイエス様の技量」が、溢れ出ている。私達の罪への恐るべき神の怒りを、気絶なさらず受け取り、全ての痛みを意識を持って受け止めておられる。あざけりと罵声の行列の中で、その全てを「我が身」に受け止めておられる。誰か主イエスの思いを、その心の内を知る者がいるか?イエス様は「私」の身代わりとして「罪」の最も大きな憎悪と卑しめを、引き受けられているのだ。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」マルコ8・36)私の生命の重さと、罪の重さは等しい。私達人間全ての罪の重みが、主イエスの肩に積まれているのである。罪と神の怒りを贖うには、父から使わされた御子イエス以外には居られない。なぜなら「とてつもない技量」を要するからだ。神の御子でありながら、人(被造物)にまで成り下がる謙卑(ケンピ)なくしては出来ない。それだけの障壁を超えられた、主イエスの愛と誠実さの技量(手腕)に、ただ、ただ感嘆するのみである。
† 愛の受容力。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない・・・」1コリ13・4・5)ここには、神の愛に生きる私達の「愛による技量」の優れた一覧が綴られる。神を畏れる者は、この一覧に留意して生きる。信仰があるといいながら、全く違った合理的な判断による「技量」を生きる人もいる。教会(キリストの身体)が「らしくない」のは、キリストのようではないからである。神の愛の生命が互いに通い合うことが妨げられているのだ。私達の心が閉じられると、真理に解放された、自由が姿を消す。そうすると、愛も、その優れた技量をも力を失う。「何事も愛をもって行いなさい」1コリ16・14)私達は初めの愛に帰る必要がある。でなければ、キリストにあること、その豊かな生命の溢れる喜び、主にある存在理由を見うしなうことになるからである。