「受容という技量」(2)
† 分け隔てがない。
家庭の中で、親が子供達を分け隔てなく育て、愛情を注いでいるのを見るのは麗しく幸いである。一方では、親が子供に期待する余りに厳しさだけを強いる事がある。また、親が子供に優劣をつけて差別を与えてしまう場合もある。大事にされていないと感じ、傷ついた子供は、愛されない影を人生に映して生きることになる。神を知るためには、愛を体験していることで「理解して神を知る」人間は親子の愛をとおして「愛がわかる」ように家族が置かれている。現代は、愛に溢れた健全な家族ばかりとはいえない。多くの人が子供時代に愛に傷つき、痛んだ心に苦しんでいる。主は言われる「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」ルカ5・31)そのために、主イエスは天からこの世に遣わされた。それは、人は愛されることによらなければ愛を知る事が出来ず、神の愛によって、心が溶かされて、初めて神の十字架の救い(解放)を受け容れられるからだ。愛は具体的である。抽象や言葉ではない、親が実際にしてくれた愛のように、神は具体的な行いを通して愛されるのである。キリストの真理にある者は、使徒パウロのように「・・・彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから」ガラテヤ2・6)と、神に愛される子供として、胸を張って生きようではないか。
† 魂の中に受容する。
小学生の頃、村で唯一の蓄音機が我が家にあった。東京が焼け野原になる前に父が田舎の実家に届けた。レコードも何十枚かあり、その一枚を聞いてみた。サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」だった。父は田舎ゆえに洋楽を封印していた。しかし、あのバイオリンの旋律は消えることなく残り続けていた。最近、驚いたことに、8才の「ひまり」ちゃんが、このサラサーテを演奏し、世界的な評価を受けた。審査員は「この子の中には神様か天使がいる」と絶倫した。これを何回聞いても涙が溢れてくる。8才にして曲想を受容し、自らの感受性を、優れた技術で情緒溢れる旋律にする。世界が認める天才とは、技術のみではなく、豊かな人間性を伴う。技量とは生まれ持つものか、おおかたは、目が開かれ、愛に満ち、惜しみない努力で、生まれるものである。