「直視できる霊へ」(6) † 古きを新しきに。 私達の身の周りは、常に新しきに向かって、私達を歩ませる。電化製品も、あらゆる産業も、新しい物作りのために、知恵を絞っている。身近な加工食品も年々の新商品に溢れる。この事によ
「直視できる霊へ」(5)
「直視できる霊へ」(5) † どこに立つべきか? マルチン・ルターは「我はここに立つ。他になしあたわず。神よ我れを救い給え。アーメン。」と言った「ここ」というのは場所のことではなく「神の言葉」の事である。神の言葉に立つ以
「直視できる霊へ」(4)
「直視できる霊へ」(4) † 恥じない姿か? 世の中に生きていて、恥じることなど何もないと感じる。ただ「あなたは、主イエス様の目に適う姿か?」と、問われることに「直視」できる人は、少ない。全く、そんなことに気付くこともな
「直視できる霊へ」(3)
「直視できる霊へ」(3) † 添え物である。 主菜(メインディシュ)に沿えるもの。そういった付属する役目が、主イエス様との関係で意識される。多くの立派な神の器が、謙遜にへりくだっておられるのには驚く。そのような身分を喜
「直視できる霊へ」(2)
「直視できる霊へ」(2) † 勘違いの結果。 これは自分のことである。ある仕事上の指示を受けて、成し終えたが、勘違い(理解の間違い)で、やり直しを余儀なくされた。聞き取ることの能力不足であり、性格的な欠陥でもある。これが
「直視できる霊へ」(1)
「直視できる霊へ」(1) † 霊的直視を不可能にするもの。 人間には直視できないものがある。まず、身近な太陽である。キリスト以前の世界では、ヤーウェー(神)を見る者は、すぐに死なねばならなかった。このような物理的な「目
「生ける水を流す」(7)
「生ける水を流す」(7) † 川となって流れでる。 川とは「河」を意味している。大きな川のことである。私達の想像を超えた流れのことである。心の奥底から(腹から)涌きでるのである。一つ、体験した事は「驚くべき神の御業」とし
「生ける水を流す」(6)
「生ける水を流す」(6) † 教会の存在理由。 教会は誰のためにあるのか?このことに対しての答は幾つかある。地上に、教会があるのだから、世(人々)のためである。大きな理由の一つである。しかしながら、最重要なことは、教会は
「生ける水を流す」(5)
「生ける水を流す」(5) † 御言葉の戸が開く。 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩119・130)文語で読んだときには感動した。「・・・愚かなる者をさと(悟)からしむ」まさに、私
「生ける水を流す」(4)
「生ける水を流す」(4) † 与えられて流す。 今、あるものは与えられるが、今、無いものは与えられない。私達は長年の信仰生活をしていても、常に霊的な全てを、備えているわけではない。気乗りがしないまま、御言葉が思い浮かばず