「私でしかない」(1) † 最も小さな単位。 百人の中の一人とみるか、世界人口82億人のうちの一人とみるかで単位は大きく変わってくる。何の意味もない比較としか思えないが、はっきり解ることは、「私は私として生きている」とい
「傾向性への警戒」(7)
† 嫌われること。 誰でも、あえて嫌われることを望まない。また、人がやらなくても、自分は、やらなければならない事がある。自らに信念があるなら、このような問題はいつも起こってくる。パウロが教える「正しい良心と偽りのない信仰
「傾向性への警戒」(6)
「傾向性への警戒」(6) † 理解と行動のギャップ。 人間の個性は10人おれば、10人別々で、それぞれ尊重されるべきである。個性も変化してゆくものでブレークスルーして成長する。そのように人間が成長した果てにも個性がある。
「傾向性への警戒」(5)
「傾向性への警戒」(5) † 面子を保つ。 誰もが自己尊厳性を持っている。それを卑しめたり、軽くあしらったりすることは品位のない人のする事である。「隣人を愛せよ」ということは、隣人を尊敬せよ、と言うことに繋がっている。言
「傾向性への警戒」(4)
「傾向性への警戒」(4) † 武士的な気風。 日本は言うまでもなく欧米化社会である。私達クリスチャンには感謝な体制である。人権が何よりも重んじられることを求める社会であるからだ。一方、社会主義的な平等理念がないので、貧富
「傾向性への警戒」(3)
「傾向性への警戒」(3) † 知り尽くされている。 最も安心なのは、主なる神が私達を知り尽くしておられる事である。「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます」詩139・2)安心し
「傾向性への警戒」(2)
「傾向性への警戒」(2) † ただ健全に向かう。 主イエスを信じたら、何が始まるのか?喜びと、真理の自由の生活が始まる。主イエスを信じて、初めて気づいたことは「感謝」することが、生活の中に生まれたことだった。信仰の初めは
「傾向性への警戒」(1)
「傾向性への警戒」(1) † 自らの傾向を知る。 高齢者運転免許講習が、先日の午前、K自動車学校で行われた。高齢者の運転には傾向性があり、それが危険を伴うからだ。高齢者は運動神経が衰え、視界も狭く、夜には視力が届かない。
「光りの子供らしく」(7)
「光りの子供らしく」(7) † 最も高きところへ。 無理難題のことではなく、至極当然な、光りの子供の高嶺のことである。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6
「光りの子供らしく」(6)
「光りの子供らしく」(6) † 御足の跡を歩む恵み。 私達は「光りの子供」として自認し、生きる事を求められている。主イエスのように(歩まれたように)歩む事を願っているから、光りの子供「らしい」のである。主イエスの足跡は消