
- 「直視できる霊へ」(6)
「直視できる霊へ」(6)
† 古きを新しきに。
私達の身の周りは、常に新しきに向かって、私達を歩ませる。電化製品も、あらゆる産業も、新しい物作りのために、知恵を絞っている。身近な加工食品も年々の新商品に溢れる。この事によって環境が良くなり、健康が増進し、生活が楽しくなるならば幸いである。新しくなることには、大いに意義がある。しかし同時に、私達は、いずれ、この世を去るべき人間である。この世の進歩と発展がいかに幸いでも、私達の生命と魂の保証はしない。一方、永遠の生命の経綸(ケイリン)は、およそ4000年前のアブラハムかち続き、神の歴史(聖書)に、刻印の如く記されている。2000年前の、キリストの十字架と復活はリアリティに満ちている。神が与える信仰は、発明発見を歩む世界に、神の現実として、永遠の生命の躍動を現すのである。世界が唯物的な豊かさに捕らわれている中に、永遠の生命の真理は、輝きを増す。人間は新しき世界に向かっているが、必ず「死」に敗北し、墓が口を開いて待っている。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」ロマ6・23)人の命と魂は古きいにしえの十字架と復活の真理によって、新しく永遠に生きる。† 初心に帰る成長。
人は、誰もが成長する。昨日学んだこと、目にしたこと、体験した事は、今日を新しくしているからだ。この事を繰り返しながら成長している。これからも、さらに多くを教えられ、実践的な訓練を通して幸いな成長に導かれるのである。ただ、聖書的、霊的な成長には、揺るぎない基礎がある。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」默1・4)愛は、私達の救いの元始であり、ここに留まることが「揺るぎのない成長」として、主なる神に認められるのである。私達が、主イエスに勝る大きな業を行う(ヨハネ14・12)にしても、それだけでは成長ではない。「・・・愛がないなら、何の値うちもありません」1コリ13・2)自らに成長を認めたいならば、どれ程に「・・・みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返る・・・」Ⅱ歴代7・14)おごりや高慢に陥らないために、十字架を追うことである。これが偉大な成長である。